
明治20年代まで、船岡には大沼など6つの沼があり、秋になるとたくさんの白鳥が飛んで来て、その美しい姿を水面にうつしていました。人々は、子どものころから白鳥は神の使いであると教えられ、たいそうあがめていました。
戊辰の役(明治元年、1868)に負けた仙台藩に官軍がやって来たのは、9月のこと。官軍の兵士たちの勝手なふるまいに、人々の心は暗くしずんでいきました。 |

そうしているうちに、官軍の兵士たちは、あろうことか白鳥を鉄砲でうち、稲抗(くい)でなぐり殺し始めたのです。"神様の使いである白鳥様になんてことをするだ。今にきっとバチがあたるにちがいねえ"と人々の誰もが思いましたが、どうすることもできません。やめてくださいという嘆願にも耳をかしてもらえませんでした。白鳥たちも白いからだを悲しみにふるわせて、毎日おびえているように見えました。
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そして運命の10月28日、とうとうおそれていたことがおきたのです。柴田家の家臣小松亀之進、森玉蔵、島貫豊之進、森良治の4人が横橋の用水路で雑魚をとっていると、鉄砲の音が数発聞こえてきました。"また、白鳥様をうってやがる"と直感し、いよいよがまんできなくなった4人は官軍の兵士たちをやっつける決心をし、亀之進と玉蔵が神次郎村のある家から鉄砲をかり、沼の方へと走りました。 |

2人が兵士たちを発見したとき、彼らはすでに小坂舟場から舟に乗り、川の中ほどのところにいました。玉蔵は思いきって彼らに向けて引き金を引きました。バーン。弾は兵士にはあたらず、舟べりにあたりました。
このことはその日のうちに広まりました。お役人にもすぐ報告され、仙台藩に犯人の引き渡しが要求されたのです。 |

亀之進と玉蔵はとらえられ、玉蔵は仙台へつれて行かれる途中ににげました。亀之進は牢(ろう)に入れられました。柴田意広(もとひろ)も家臣の責任をとり、涌谷(わくや)伊達家にお預りとなりました。
そして11月4日。意広は切腹(せっぷく)、亀之進は首をきられ、玉蔵の身代りに義兄の森文治の首もきられたのです。その玉蔵も翌年つかまり、大森馬の沢で処刑されたということです。 |

それ以来白鳥をいじめる者もいなくなり、また沼に平和がもどってきました。けれど、白鳥たちをまもるために戦った家臣の命は、もうもどってきません。人々は、家臣たちの勇気を決して忘れまいと思いました。この事件は白鳥事件とよばれ、今も語りつがれています。 |